0807

腰痛である。昨日は、やや違和感、くらいの痛みだったが、起床のち起き上がろうとした瞬間激痛が走った。 その後はしばらくぼーっと天井を眺めて、寝ながらできる腰痛改善のストレッチをしたのち、腰に気をつかいながら起床。 適当に着替えて近所のドラッグストアへ行き湿布を買った。ついでに牛乳も買う(私の牛乳の消費量はすごい)。 湿布を貼ってしばらくするとその辺りがひんやりとしてくる。誤魔化し、と思う。 背中に長い板を貼り付けたい。体制を変える時などは、腕などでカバーして頑張っている。今度は腕を痛めそうである。

腰痛のことはさておき、映画に行こうと思ったが、やめてしまった。今年があと5ヶ月でおわるというポストを見たからだ。

日記や文章を演技めいたものとして扱ってこなかったのだけれど、そのようなものがあっていいのかもしれない。 面白いからとかそういう理由ではなく、言葉や文章をもっと自由に扱うことができたら嬉しいから。

「いつか、僕のしたことをきみに話せるだろうか」を読み終えた。 Xに書いた140字の感想には、生成AIが書いたかのような雰囲気があり、悔しい。 慣れてしまうことの恐ろしさ。機械的な行動と感情を抑えて淡々とこなしていくことを強制される状況と。 これがフィクションである一方で、現実のどこかで起こっているかもしれないという可能性の問題を無視できなかった。 フィクションと思って受け入れていいのだろうかと思った。

今日はそんなに考え事をしなかった日だったなと思う。部屋の片付けや本棚の整理をしたら寝る。

0806

朝に家を出なければならず、早起き。 大学に自転車を置いているので徒歩で駅に向かう。 工事により不協和音が響いている。涼しい朝。

文藝2026年秋号に掲載されている、大前粟生「いつか、僕のしたことをきみに話せるだろうか」を読んでいる。 日毎の短い文章が複数連なることで物語が形成された日記文学であり、戦争文学である。 いま、読まねばならないと思って読んでいる。 「日」という単位があることで、一般的な小説とは違って、 場面の切り替わりや展開が急にやってくる。 高塚謙太郎『散文の連なりについて』も読んでいるため、 文体の連続性なるものの違いをより一層感じている。 場面を刻んでいる感覚、飛躍や跳躍。しかし日々は連続しているものである。 日記の純粋さ、散文の滑らかさの不気味さ。

ある日のことを書くとき、その日あった出来事よりも、 その日に何を思い出したかを書くことが多い。 例えば、恋愛したほうがいいよと言われた日のことなど。 そのような場所で、恋愛した話をすると喜ばれる。 ゴシップを肴に飲むお酒はすぐ酔う気がしている。 すぐ酔うお酒はあまり美味しくなかったりする。
居たいから一緒にいる。ただそれだけである。 そこに愛などの感情が含まれている場合があるかもしれないけれど、それが一緒に居たいと思うことと必ずしも一致するのではないのだから、 ただ、一緒に居たい、で良いと思っている。 けれど、一緒に居るには、約束や同意や安心みたいなものがあったほうが良いということも分かっているつもりである。 ひとはそういったものを恋や愛と呼んでいるのかもしれないなということも。 何を考えているのだろう、考えている時間、ずっとひとりである。

0805

朝日が射す明るい部屋である。 鳥がベランダの側を横切るたび、カーテンに俊敏な影が落ちる。 今日は一日中家にいて、サイトの調整や2種類のオンラインミーティング、就活の壁打ちなど。 昼と夜の境目もわからないまま更けていく。 家にいるあいだ、牛乳7:珈琲3のコーヒー牛乳を3杯ぐらい飲んでいた。
あったことを書くのではなく、あったことに対して何を思ったのかを書いている。 優しさについてまだ考えている。 どうかこれを読んだ方が傷つかないようにと思う。 じゃあどうして書くのかとも思う。 口頭であれば空気に溶けて消えていくが、 記憶にはとどまりやすいなと思う。 面と向かって話す勇気はあるのか。

どこまでも独り言である。嘘かもしれない。

2ヶ月前に行った市内の病院で、大学病院で受診をするようすすめられたが、 個人情報保護法改定案の件もあり、先送りにしてしまっている。 病院のパンフレットが部屋のどこかで多分折れ曲がっている。 もう行かなくていいかなという気持ちになる。
昨日の日記を書いている。 ここ数日で溜まっている疲労感が一気に押し寄せて、 気づいたら朝である。出かけなければならない。

0804

一人ひとり違った人との関わり方がある。人ともっと深く関わった方がいいということを、最近はよく考えている。

優しい(突き放している)。優しさを受け取った時の感情は、素晴らしくて敵わないと感じる時と、もう一つ、その優しさの出どころがわからないときに思ってしまう感情がある。 嬉しい言葉を言ってくれた人たちのことを優しいと思う。けれど、優しいなと思える言葉をかけられると、線を引かれたような、少し距離を置かれたような感覚になってしまう。 自分も、人のことを十分に知ろうとしないまま、突き放してしまっている。他人のことを十分に知らない時は優しさを受け取りやすいけれど (十分に知らないときに受け取れない優しさもある、十分に知っているからって全ての優しさが受け取れないわけではない)、 少し知ってしまうと、優しさを受け取りずらくなってしまう、と思っている。多少知っている人と話すのなら、 冷たい言葉の方が信用できてしまう。そのなかに優しい言葉が潜んでいて、それを見つけた時にとても嬉しくなる。 そう思った時にふたたび、自分はどんなふうに人と関わってきたのだろうと考えたりして、 まとまらないなと考えるのをやめる。こんな人が、人と深く関わることなどできるのだろうかと思う。

同質的な集まりの中で、質の異なるものたちが透明になっていくこの場所にいられないと、数週間前に思ったことをずっと引きずっている。 ルックスとかセンスとかで測られている。大事だな、とは思っている。
どんな場所であれ、知ってる人がたくさん目に入っている状況で何かを話すことが苦手である。
その空間に2、3人だけでいるときに不意にやってきた沈黙の方が心地いい。

今日は慰労会があったため、クローゼットにある服の中で一番お気に入りのセットを着た。
打ち上げはエンディングでした。
最近は夜、涼しくていい感じですね。昨日は星が綺麗でした。ほんのりオレンジで。散歩の再開です。

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令和の時代につくられたとは思えないつくりのWebサイトをつくりました。
日記や詩を更新したりします。